原告木下新二は、2005年3月7日19時35分、肺炎のため永眠致しました。
皆様からの生前のご交誼に対し厚く御礼申し上げます。享年78歳。



カルテの謎〜うつ病診断
報道〜「特冊新鮮組」
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井戸田病院と私
 1998年、70歳の晩秋。私は、右足の親指を深爪した。その数ミリの切り傷が化膿した。妙に治りが遅かった。早く治そうと考えて井戸田病院を訪れた。
 医師は、足の親指の化膿部分をメスでつついて膿を出した。すぐ治るとのことであった。しかし、傷口は年が明けても治らず、痛みが増した。

 私は、井戸田病院の勧めに従い入院した。毎日、足を薬液につけて消毒をした。飲み薬や点滴を受けた。傷の治りが遅いのは、糖尿病のせいだと医師は言う。
 そのうちに、足の親指ではなく他の指がじゅくじゅくと変質してきた。私は白癬(水虫)の悪化かと思った。そして右足の中・薬・小指は、ところどころ暗い色に変色してくる。
 右足の中指と薬指は、切断しなければならないと言われた。右足の親指の傷を治すつもりが、他の指を切ることになったとは……。
「なあに、木下さんなら足の指が1本や2本なくたって、へっちゃらだよ」
 そんなふうに励ましてくれた人もいたが、私にはショックな出来事であった。
 入院して19日目、壊疽となった足の中指と薬指の2本を根元から切断する手術を受けた。局所麻酔で、レントゲンは撮らなかった。

 さて、悪い部分を切る手術を受けたのだから、多少は痛むだろうが、私はそれで治ると思っていた。術後2日目には、それまで行っていた毎日の血糖値測定もされなくなった。
 ところが手術後も、切断部が腫れ、足の甲や足裏が痛みはじめ、痛み止めの座薬や注射が欠かせなくなった。痛みで夜もなかなか眠れない。
 術後4日目の看護記録には、足の色が悪いこと、下肢の冷感や足部の膨張と熱感があることが書かれた。アイスノンを貼って冷やしはじめた。足を何度も挙げるように言われるが、痛みは余計に強くなる。
 術後5日目の看護記録には、切断部の変色が絵で記録された。踵も痛む。
 術後6日後(2月9日)には、足が暗黒色となり、足裏が内出血のようになった。この頃から私の意識はだんだんと不確かになっていった。高熱と激痛のためか、朦朧としてきたのである。

 見舞いに来てくれた古くからの知人の顔が、誰だかわからなかった。
 家族は、お父さんはボケてきたのではないかと驚いたらしい。あとから考えると、これは壊疽の悪化による意識障害ではないかと思われる。非常に危険な状態である。脳障害がおきるほどに、全身状態は増悪していたことになる。
 もはや、足の怪我どころではない。足の病気は、全身の病気へと移行していったのである。このまま死ぬのではないかと思われる病状を前に、家族は病院に不信感を持ちはじめた。
「お父ちゃん、ここにいたら殺されちゃう」と、私の娘が言った。

 術後8日目、言葉がうまく話せなくなった。看護師は、痴呆か脳血管障害かと疑った。医師は家族に転院を要求してきた。
「これは、血管が詰まって血流が悪くなっているのが原因です。血管に管を通して中で風船をふくらませ、血液の通りを良くする治療があるが、この病院には設備がないから、大きな病院へ代わって欲しい」(これは動脈硬化による慢性動脈閉塞症の治療法である血管拡張術のことだろうが、実は、足の指を切る前に、検討すべき治療方法である)
 家族は、あちこち人を頼って病院を探した。病室は満室だった。無理にお願いして、なんとか4日後に転院することが決まった。
 足の指の切断手術から12日後(入院してから31日後)、意識朦朧の私はタクシーに押し込められ、井戸田病院から名古屋第一赤十字病院に転院した。家族は救急車をお願いしたが、断られていた。
 右足は足首の上まで黒色に壊死し、膝関節まで紫色になり一部は緑黄色、赤色に変色していた。
 名古屋第一赤十字病院では、足の切断が検討された。しかし、急激な壊疽の進行をみて(その日レントゲン写真が撮られていた)、緊急手術となった。右大腿部の切断手術である。命が助かるかどうかはわからない、と家族に説明がなされた。進行する感染が、内臓に達したら死亡する。
 私は、一刻を争う激症型のガス壊疽に感染していたのである。
 私が病室で意識をとり戻したとき、私の右脚はなくなっていた。
 私は、病室の窓から飛び下りて死のうと思った。けれど、できなかった。窓のところまで行こうにも、脚がないので歩けなかったのだ。

 私には絶望している暇もなかった。切断した縫合部の中に、ガス像が発見されたのだ。手術創が開かれた。そして、ガス壊疽菌を削り取る治療がはじまった。
 麻酔はなかった。朝と夕の毎日2回ずつ、医師や看護師に身体を押さえつけられ、切断面に繁殖する白っぽい細菌を生肉ごとメスで切り取るのだ。
「はあい、木下さあん、歯を食いしばってえ」
 優しい声をかけられて、私は、頭の上にあるベッド枠の鉄パイプを握りしめる。私の身体に何人もの人の体重がかかる。
 五寸釘をびっしりと突き立てて剣山のようになった戸板を、プレス機械で押しつけられるかのような痛み。
 普通の人は失神するそうだ。意識がなくなるから楽なのだという。しかし、残念ながら、私の場合はずっと意識があった。
 生き地獄は43日間続いた。

 脚の再切断手術で縫合したあと、さらに井戸田病院で下地が作られたと思われる褥創(床ずれ)の手術となった。褥創の治療は長引き、苦しいリハビリも続いた。名古屋第一赤十字病院での入院は7カ月に及んだ。

 大腿部切断後5年を経た現在でも、痛みが消える日は一日としてない。「無い足が痛い」という幻肢痛が続いている。脚を切られたときの痛みを、神経が覚えているのだという。私の場合は、生肉を削る痛みも加わっているのだろう。全く記憶力の良い神経である。
 体重を支える義足装着部の痛みも、間断なく襲ってくる。もはや私は、切った足の根元にホカロンをあてながら、痛みに耐えるだけで精一杯の毎日となった。
 娘の佳代子は、私ごときの入院につきそった心労が重なり、私が退院してまもなく、49歳で逝去してしまった。順番の違う葬式だった。
 私は76歳になった。多くの人に助けられて事業もなんとか安定し、ひとり息子に引き継がせる頃となった。本当なら人生にひと息入れたいところだった。私の趣味は海釣りであったが、もうできない。自慢の釣り道具は人にあげた。愛車も売った。思い出すのは、井戸田病院での不毛な――というより病気を悪化させられた日々である。

 病気というものは、医師がいくら一生懸命にやっても、駄目なときは駄目なものである。だが、その懸命さが井戸田病院にあったとは思えない。
 私と同室だった患者が言った。
「木下さんが、あんなに苦しんでいるのに、医者は一度も病室に来なかった」
 その人は、裁判で証言してあげる、とまで言って下さった。
 これとは対照的に、名古屋第一赤十字病院では心のこもった治療を受けた。
 あの日、主治医は私の病室に入ってくるなり両手をぱちぱちと叩いた。
「木下さん、おめでとうございます!」検査値が正常に戻って、退院が決まったのである。主治医は自分のことのように喜んで下さった。私は嬉しかった。あの姿を一生忘れないだろう。いや、私は死んでも忘れまい。
 両者の違いを思うとき、医療とは何だろうか、と考えざるを得なかった。もし、井戸田病院が誠意をもって治療にあたってくれたのなら、私は訴えようなどという気持ちにはならなかったと思う。
 私は社会正義に照らして、裁判所に教えを請いたいと思った。はたして、私の悔しさが妥当なものなのか、それとも理不尽なものなのかと。

 私は、1999年9月に名古屋第一赤十字病院を退院し、弁護士に裁判を依頼した。
 だが、それから4人の弁護士と1人の司法書士に順に翻弄された。そのなかには医療過誤裁判で著名な弁護士も含まれていた。私との意志疎通も十分ではなかったのだろう。料金は何十万円と言うなりに支払ったが、提訴すらしてもらえなかった。私は、裁判での勝ち負けにこだわっているわけではない。ただ公の場に訴えたいだけなのに。

 しかたなく、私は弁護士なしの訴訟を考えた。自分でやろうとしたのだ。
 娘の遺品のドイツ語や英語の辞典を引きながら、カルテを解読する。知人の助けを借りながら、医学書や医学論文を読む。この歳になって医学の勉強をするとは思わなかった。一般病理、微生物学、外科学、整形外科学、臨床検査、糖尿病、動脈硬化症、ガス壊疽、虚血の治療、手術、看護、医薬品、そして法律。膨大な時間が流れた。
 だが、いかんせん、法律に無知な素人では、公判を維持することは出来そうになかった。心身ともに疲れ果て、もう諦めようと思いかけたとき、5人目の弁護士に出会った。すでに退院してから4年の歳月が流れていた。

 正義への熱意あふれる弁護士であった。以前の弁護士が確保したカルテの複写があったにしても、最初の面談から1ヵ月も経たないうちに事例検討をして頂き「一緒に戦いましょう」とお返事を頂いた。
 弁護士によって、こうも対応が違うものかと驚いてしまった。それまでの年月は、いったい何だったのか。私はやっと一歩を進めることができた。いやはや、片脚の人生とは全く大変なものである。
 私は賠償金が欲しいのではない。井戸田病院が適切な治療をしなかったことを反省して欲しいだけなのである。いや、これはもはや私個人の問題にとどまるものではないだろう。医療過誤の問題は社会にとって重要な宿題なのだ。

 私は、足が痛かった。医者に言ったら、痛み止めをくれた。それでもなかなか効かなかった。病気はどんどん進行する。
 そこで、痛いのは何故だろうかと原因を探るのが、医者の役目であろう。原因を突き止めて病気の進行を食い止めるのが、医者の務めであろう。医者というのは、病気を治すのが職業ではないのか?

 私は、井戸田病院で、癌の痛み止めでもある強力な鎮痛剤ペンタジン15mgを注射された。それでも眠れないほどの痛みが続いた。それをどうしてなのだろうかと考えることができないのなら、医師を即刻廃業して頂きたい。そうでなければ、社会の多くの人々にとって害悪である。医師は公共の福祉を支えているのだから、至極あたりまえの話である。

 この裁判は、誤診という病気の見落としや検査・治療の不作為、切断の部位や回避の問題で、医療契約の債務不履行を問うている。外見ではそのような形なのだが、しかし、この内実は、期待される医療に対する、医師の最善の努力義務を訴えているのである。すなわち、医師の社会的倫理規範の必要性を問うているのである。
 この規範が、社会的に監視され処罰の対象とならなければ、患者の人権を確保することはできない。
 なぜなら、医師は、実質的に、医学知識や臨床技術を独占しているからである。現実問題として、患者に判断の余地はないのである。目の前で行われている治療に対して、患者にはその是非が分からないのである。

 よいですか? まな板の上の鯉にどうしろと言うのですか? 患者が入院している状態で、患者の側に落ち度も何もあるわけがない。全ては病院と医師の落ち度なのである。
 この自明の論理が、いつのまにか医療の専門性とやらの中に消え去ってはいないだろうか。
 私には、ほとんどの医療過誤裁判で、この自明の論理が忘れられているのではないかと思えてならない。そのために、ほとんどの医療過誤が、刑事裁判ではなく民事裁判となってしまい、医学に素人である患者側が医療を検証しなくてはならなくなる。「もし、こうしていたら、どうなっていたか?」などとタイムトラベルをするような仮想の連続で、患者が医学的可能性を論証することになる。医師の側からは「何もしなくても結果は同じだった」などと人の生命を軽視する愚かな主張がまかり通る。誠意のない医師に対して「それは犯罪である」と誰も言えないのである。
 常識で考えて、こんな馬鹿な話があるか?
 これでは、日本の司法機能に重大な欠陥がある、と言わざるを得まい。曖昧な全ての可能性は、全面的に患者側の利益に帰すべきであろう。

 私だって争いごとは大嫌いである。もし、他に方法があるなら教えて頂きたい。
「訴えなければ裁判なし」医療過誤事件は、賠償金請求という民事訴訟の形をとらざるを得ない。だが、これは医療がどうあるべきかを問う、大切な裁判なのである。わが国の医療現場を質す、重要な連なりを持つ裁判なのである。
 幸い私には不要になった不動産がある。軍資金は潤沢である。
 医学界の横暴に泣かされている多くの人達に向けて、このホームページで戦の状況を報告致しましょう。
 医療過誤裁判は難しいと言われている。だが本当はそうであってはいけないのだ。
 不肖、片脚の木下が徹底抗戦を致します。
 さて、冥土の土産に、最高裁とやらを車椅子で見物できますかな。

 2004年5月21日金曜日 快晴。
 井戸田病院脱出から5年3カ月を経て、本日、提訴なり。

                             木下 新二
カルテの謎〜うつ病診断
報道〜「特冊新鮮組」


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