私は、足が痛かった。医者に言ったら、痛み止めをくれた。それでもなかなか効かなかった。病気はどんどん進行する。 そこで、痛いのは何故だろうかと原因を探るのが、医者の役目であろう。原因を突き止めて病気の進行を食い止めるのが、医者の務めであろう。医者というのは、病気を治すのが職業ではないのか? 私は、井戸田病院で、癌の痛み止めでもある強力な鎮痛剤ペンタジン15mgを注射された。それでも眠れないほどの痛みが続いた。それをどうしてなのだろうかと考えることができないのなら、医師を即刻廃業して頂きたい。そうでなければ、社会の多くの人々にとって害悪である。医師は公共の福祉を支えているのだから、至極あたりまえの話である。 この裁判は、誤診という病気の見落としや検査・治療の不作為、切断の部位や回避の問題で、医療契約の債務不履行を問うている。外見ではそのような形なのだが、しかし、この内実は、期待される医療に対する、医師の最善の努力義務を訴えているのである。すなわち、医師の社会的倫理規範の必要性を問うているのである。 この規範が、社会的に監視され処罰の対象とならなければ、患者の人権を確保することはできない。 なぜなら、医師は、実質的に、医学知識や臨床技術を独占しているからである。現実問題として、患者に判断の余地はないのである。目の前で行われている治療に対して、患者にはその是非が分からないのである。 よいですか? まな板の上の鯉にどうしろと言うのですか? 患者が入院している状態で、患者の側に落ち度も何もあるわけがない。全ては病院と医師の落ち度なのである。 この自明の論理が、いつのまにか医療の専門性とやらの中に消え去ってはいないだろうか。 私には、ほとんどの医療過誤裁判で、この自明の論理が忘れられているのではないかと思えてならない。そのために、ほとんどの医療過誤が、刑事裁判ではなく民事裁判となってしまい、医学に素人である患者側が医療を検証しなくてはならなくなる。「もし、こうしていたら、どうなっていたか?」などとタイムトラベルをするような仮想の連続で、患者が医学的可能性を論証することになる。医師の側からは「何もしなくても結果は同じだった」などと人の生命を軽視する愚かな主張がまかり通る。誠意のない医師に対して「それは犯罪である」と誰も言えないのである。 常識で考えて、こんな馬鹿な話があるか? これでは、日本の司法機能に重大な欠陥がある、と言わざるを得まい。曖昧な全ての可能性は、全面的に患者側の利益に帰すべきであろう。 私だって争いごとは大嫌いである。もし、他に方法があるなら教えて頂きたい。 「訴えなければ裁判なし」医療過誤事件は、賠償金請求という民事訴訟の形をとらざるを得ない。だが、これは医療がどうあるべきかを問う、大切な裁判なのである。わが国の医療現場を質す、重要な連なりを持つ裁判なのである。 幸い私には不要になった不動産がある。軍資金は潤沢である。 医学界の横暴に泣かされている多くの人達に向けて、このホームページで戦の状況を報告致しましょう。 医療過誤裁判は難しいと言われている。だが本当はそうであってはいけないのだ。 不肖、片脚の木下が徹底抗戦を致します。 さて、冥土の土産に、最高裁とやらを車椅子で見物できますかな。 2004年5月21日金曜日 快晴。 井戸田病院脱出から5年3カ月を経て、本日、提訴なり。